コラム(讃岐うどんの歴史と伝統)

【第三章】讃岐うどんの近代史

この章では大発展した讃岐うどんの驚くべき史実による近代史をお伝えします。
戦後の経済復興と人口急増によりうどんの消費量も急速に伸び、全国では質より量を求めて機械化による量産化が進む中、香川県では伝統の讃岐(手打ち)製法をかたくなに貫き通し、最高に美味しいコシのあるうどんを提供し現在の繁栄を築きました。その先人の築いた伝統製法は現在の日本の麺を多加水化に 導き、品質の向上を果たして日本の麺業界の発展に大きく貢献したのです。

≪驚くべき史実≫

一、これを知る事で分かる讃岐うどんの近代史

その史実とは、讃岐うどんの命ともいえる「足踏み工程が“禁止”された事です。香川県は1968年(昭和43年)に『足踏み禁止条例』を発令しました。それは県外の人から讃岐うどんは美味しいが足踏み作業が「不潔だ」と指摘され、将来の讃岐うどんの発展には食品衛生上欠かせないとの事で禁止となりました。


足踏み

しかし、結果としてその決断が以後4度の大ブームを起こし、讃岐うどん店が全国に出店し、冷凍讃岐うどんの大ヒットを生むなど大きく発展する事となりました。足踏み禁止は食品衛生の目的だけでなく、製麺作業の省力化も果たし「最高品質麺(多加水麺)の量産化」をも実現したのです。しかし、手打ち職人の世界であった香川県に於いてコシの強いうどんを作るには最も大切な足踏み工程を禁止するなどという事はとんでもない事であり、“うどんのコシが死ぬ”とも言われ猛反対が起こりました。弊社としては香川県から何とか製麺機を売り込んで欲しいと懇願され、製麺所に売り込みに行きましたが、二度と来るなと門前払いされ全く機械(足踏み代用機)が売れない状況が続きました。しかし、そのうちに次第に食品衛生としての観念が根付いていき、さらに重労働と非能率的な作業からの解放という「うどんの足踏み代用機」は当時で言うと抜群の省力化を果たしたのです。うどん打ちや茹での作業は主人が行い、足踏みは主に女性や子供が行う場合が多く、体重を重くする為にリュックに本などを詰めて背負い何時間も作業を行っていましたのでその重労働から解放されたわけです。当時、経済成長が続く中、3種の神器と言われた(白物家電)冷蔵庫・テレビ・洗濯機の普及が急伸する中、主婦を重労働から解放した洗濯機と同様「足踏み代用機」も大歓迎されました。


初期の製麺機

洗濯機

二、讃岐うどんの表示問題

弊社は香川県より、その「足踏み代用機」の開発を依頼され完成した「讃岐うどん製麺機」により、全くの素人でも手打ち職人を不要とする讃岐うどんの製造を可能としました。結果として、香川県が禁止した足踏み作業は食品衛生の目的を果たしただけでなく、讃岐うどん店の出店を加速し、日本の麺の高品質化、そして量産化にも多大な貢献をする事となったのです。
しかし、地元香川県の製麺組合に於いては深刻な問題が協議されていました。というのは、讃岐うどん製法の足踏みが禁止されると「手打ちうどん」の表示が出来ない事になるのです。全国製麺組合で定められた「全国生めん類公正取引協議会」での「表示基準」について。つまり、「手打ち」「純手打ち」を表示するには、手ごね、足踏み、麺打ち、包丁切りのすべての工程を手作業で行う事となっていたため、讃岐うどんが「手打ち」と言えなくなったのでした。そこで当時の組合長であった中原氏(さぬき麺業㈱初代社長)はじめ役員5~6名が東京の全国製麺組合の本部に出向き、香川県が足踏み禁止になった事を伝え、その表示基準の見直しを迫ったのです。結果として、その陳情が実り、手打ちの理論が「麺棒で仕上げ、包丁で切ること」の2つの条件を満たせば良いという結果となりました。つまり、ミキサーと足踏み代用の麺生地形成機は使用しても「手打ち」と表示できる事となったのです。さらに、タテ・ヨコ延しを機械で行い、包丁切りでなくても薄刃の切り刃を使用する場合は「手打ち式(風)」の表示も可能となったのです。これは香川県の製麺組合の役員の方々の大きな功績として、以後の讃岐うどんの発展に多大なメリットを生む事となりました。
そこで次に紹介する「讃岐うどんの表示基準」についてですが、あまりにもあいまいににしか理解していない人が多いのが問題になっています。ほとんどの消費者は、商品の表示を見て讃岐うどんと思い込み、買ってしまうのです。次にある表示基準を守り製造した商品は問題ありませんが、機械うどん用の複合機やロール麺機を使用した商品は讃岐うどんとしては販売できません。
外国産肉を国産肉と偽り販売するに等しく、公正競争規約という法律を犯す事になります。
讃岐うどんの将来の発展を願い、ぜひ表示基準を満たした製法で製造して欲しいと願っています。

讃岐(さぬき)うどんの表示基準

  1. 香川県内で製造されたもの
  2. 手打ち・手打ち式(風)のもの(タテ・ヨコ延ばしが必須です!)
    ※複合機やロール麺機で製麺したものは該当しないので要注意‼
  3. 加水量・・・小麦粉重量に対し40%以上
  4. 食 塩・・・小麦粉重量に対し 3%以上
  5. 熟成時間・・・2時間以上
  6. 茹でる場合・・・茹で時間約15分で十分α化されている事

注1:本場・名産・名物・特産を表示する場合は①~⑥の全てを満たす必要アリ
注2:「讃岐(さぬき)うどん」のみ使用する場合は②~⑥を満たせば全国どこで製造しても可能です。

この「表示基準」は消費者庁管轄の「公正取引委員会」の管理下にあり、「全国生めん類公正取引協議会」が定め、消費者に対し正しい麺製品を届ける為の“法律”です。現在、讃岐うどんのみやげ・贈答品などに違反商品が多く讃岐うどんの信用を失う事の無いよう「法律を順守」すべきです。

三、讃岐うどん第一次ブーム

数百年の歴史がある讃岐うどんも、専門店の歴史は意外と新しく50年ほど前、讃岐うどんの第一次ブームの起こった大阪万博(1970年)あたりからで、それ以前は製麺所から配達されたうどんを温めて提供する食堂ばかりでした。現在のように打ち立て、茹でたてを提供する『専門店』としての讃岐うどんの近代史は、まさに“足踏み禁止”をきっかけとして始まったのです。それ以前のうどん食堂は県内に3,000軒あり、当時500軒あった製麺工場よりうどんが配達されていました。500軒という製麺工場数も他県との比較では5~10倍もの軒数でした。香川県では法要などで親戚が集まった時、お茶より先にうどんを食べ、帰りにはお土産として持ち帰ったため一軒当たり100~200食ものうどんを必要としたので製麺工場数も多かったのです。その法要のうどんは決まったように「湯だめうどん」が提供されました。かけうどんではなく、熱い湯につかった丼のうどんをダシ猪口に移して食べる方法です。法事の行事の性格上シンプルなうどんが提供されたという説と、多くの人にかけうどんを出すとなると大量のだし汁が必要であったため、少量で済むつけ汁になったとの説もあります。高度経済成長の進む中、食堂は専門店として自家製麵に替わり、八百屋はスーパーに市場を奪われ、製麺工場としては販売先をどんどん失う事となったのです。当然ながら廃業に追い込まれたりしながら製麺所の数も激減して現在では60軒ほどになりました。そのような中、製麺所が生き残りをかけて製麺所内でうどんを食べさせるようになりました。もともとうどん好きの人が多い香川県ですので、店舗でなくとも近所の人が勝手に食べに行っていました。テーブルやいすは無く、茹釜の横の土間で立ち食いする光景が多く見られました。製麺所の中にはうどんが茹で上がったという印に、長い竹竿の先に白い布を取り付け高く見えやすい所にかかげ、それを見て食べに来る人がある等、製麺所には茹でたての美味しいうどんがある事を周囲の人が知っていたのです。そういったことは讃岐うどんの原風景として懐かしく思い出されます。当時、製麺所で食べるうどんは一杯30円(一般うどん店では50円)でした。なぜもう少し高くしないのかと尋ねると、配達して集金してやっとひと玉20円なので、勝手に来て勝手に食べて帰り現金を置いて帰ってくれる事は大変有り難いため30円で十分なのだということでした。支払いは客が勝手に計算し箱の中に投げ入れていました。おつりが必要な場合は客が勝手に取り出していくなど、信用関係のもと成り立ったスタイルでした。セルフサービス店はその「製麺所タイプの店」をモデルとし、天婦羅や総菜類を置き、現在の形態に進化していきました。讃岐うどんがなぜ安いのかというと、この製麺所タイプのうどん店が発展の原点であったためです。つまり、うどん玉を売る感覚で商売が始まったのです。今から約30年前、現在本場讃岐で最も行列のできる店として有名な「山越うどん」様に私が初めてうどんを食べに行ったときは一食70円でした。当時一食100円前後で食べる事が出来るうどん店は沢山ありました。しかし、どのうどん店も殆どが「かけうどん」であり、薬味はネギとショウガ、そして赤板の蒲鉾を薄く切ったものが1~2枚乗っていただけというものでした。


フルサービス

セルフサービス

現在のように多くのメニューが楽しめるうどん店のメニューは20年ほど前からと思います。ちなみに、現在多くのメニューが生まれていますが、インターネットで検索し、本場讃岐でNO.1の人気メニューはなんと「生醤油うどん」です。谷川米穀店や須崎食料品店の名物メニューとして有名ですが、そのシンプルなうどんを求めて県外からも多くの人が訪れています。うどん通にはその「生醤油うどん」が一番のご馳走なのです。確か、伊勢うどんも同じメニューしかなかったように思います。
丸亀市のバスターミナル入り口に昭和42年(1967年)「四国うどん」というセルフの店が出来ました。一杯20円で安くてうまいと大繁盛しました。一日に2店舗で6000食も売れたという事で、薬味はネギとショウガだけ。翌年の昭和43年には大阪の堺市に進出し、一杯20円の讃岐うどんが安くてうまいとこれまた大繁盛したのです。それがセルフサービス店の第一号として讃岐うどんの第一次ブームの火付け役にもなりました。安くて美味しい讃岐うどんは抜群の大衆性も発揮して順次有名になり1970年(昭和45年)の大阪万博が開催された頃、讃岐うどんの第一次ブームが起こりました。


生醤油うどん

四、讃岐うどん第二次ブーム

讃岐うどんの第二次ブームは1977年頃からの「脱サラ転業ブーム」により、全国に広がりました。第一次ブームは関西中心でしたが、経済発展が進む中、独立開業を夢見て全国的に様々な業種の開業や新規会社の設立などで多くの事業が生まれた時代でした。飲食業では讃岐うどん店か喫茶店かの選択で迷う人がたくさんおられました。讃岐うどんは弊社製麺機により素人でも問題なく開業でき、弊社の讃岐うどん学校も1975年(昭和50年)に開校していましたので毎月50~60名の研修生で沸き返っていました。この時代のうどん店開業者は決まったように店舗の入り口に「手打ち台」を要求されました。実際に手打ちの出来ない人でも麺棒と包丁切り機を置き、打ち粉を振りかけ、いかにも製麺しているように見せかけたいとのことを条件のようにされました。一方当時の喫茶店も素人で簡単に開業できる事から大人気でした。当時の喫茶店はコーヒーと紅茶、ジュース類、モーニングサービスとカレー、やきめし程度があれば十分で、コーヒーメーカーが開業指導を行っていた為素人の脱サラ転業者が順次開業していきました。

五、讃岐うどん第三次ブーム

今回のブーム、は1985年頃の「外食産業の全盛期」と言われた頃起こりました。ファミリーレストランやファーストフードの全盛期と言われ、都市部にしかなかったそれらの外食企業が全国のあらゆる市町村に店舗を拡大し、日本全国に「外食」が当たり前の時代が訪れたのです。そして、日本にいれば世界の食べ物が食べられるとも言われ、和食店はもちろんの事フランス料理、イタリア料理、アジア、北米などの様々なレストランチェーンが出来、多くの外食企業が生まれました。その頃の讃岐うどん店のメニューは、かけ、キツネ、天婦羅などのシンプルなものから、定食もの、セットメニューなど簡単で間食的なうどんメニューから食事を対象としたメニューが登場した時代でもありました。その頃から日本の経済はバブルの時代にと進み、好景気の中、高級店を思わせるようなレストランや和食店がたくさんでき、食堂的な讃岐うどん店も立派なメニューを提供する店舗が次々に開業しました。

六、加ト吉の冷凍讃岐うどんの大ヒット

日本の麺類市場に於いて「冷凍うどん」の事もぜひ知っておくべきかと思います。昨年テーブルマーク社(㈱加ト吉を吸収)が冷凍うどん誕生40周年記念をアピールされておられました。その40年前(1979年頃)私はその加ト吉の冷凍讃岐うどんの開発に携わっており、その試作は弊社近くの冷凍食品会社で行われました。ミキサーで練り,菊揉みしてダンゴを作り、荒延し、仕上げ延し、薄刃仕様の切り出し機で裁断し、茹釜で茹でて急速フリーザーに並べて入れました。その当初の冷凍うどんは今でもはっきりと思い出しますが、太目でコシ(硬さ)があり、キリキリとねじれ、角立ちも良く、麺も黄金色をしていて食べても大変美味しいと感じていました。しかし、すぐには売れなかったようでまだ時代が早かったのかもしれませんが大ヒットするまでには数年を要したようです。その後別の冷凍食品会社の要請で一時間4500食の冷凍うどんの設備を納入し、生産が始まりました。その会社の目標は加ト吉の冷凍うどんでした。しかし、いくら作っても、もちろんあらゆる工夫をしても同じ品質のうどんが出来ませんでした。とうとう弊社の機械が悪いから設備代金を払えないという事態にまでなりました。私は必死でその品質を達成しようと努力しましたがどうしても同等の品質が得られず困り果てました。そうこうするうちに少しずつその製法が見えてきました。まず湯煎する時うどんが沈んで浮いてこない事、そしてうどんがもちもちしている事の違いを追求しました。それが分かった時にはそれまでの弊社製麺機では無理という事が分かり、その原因は弊社製麺機ではなく、小麦粉を練るミキサーが「真空ミキサー」ということだったのです。原因がつかめた事で弊社の設備代金もやっとの事で支払って頂けました。そのように加ト吉の冷凍うどんは試作を始めた後、素晴らしい研究成果を上げ、その製法も格段に進化したものだったのです。それから平成の時代に入り、弊社は時間5000食の「全自動包丁切り・讃岐うどん製造システム」を完成させました。そしてその設備は知人のすすめもあり四国の通商産業省が募集していた設備近代化資金の補助金制度に応募する事となりました。すると四国で88社申請した中で弊社1社だけが補助金対象となり、その資金で「全自動の讃岐うどん製造機」が完成したのです。そして加ト吉の冷凍讃岐うどんは、その本格的な製麺設備により大ヒットすることとなりました。しかし、当時の日本の製麺会社の大半の人は冷ややかな見方をしていました。冷凍うどんは確かに美味しいが、澱粉を入れているので2~3年で飽きが来て、全く売れなくなるだろうと言われていたのです。


冷凍うどん

そして冷凍食品の同業者からは、うどんの7割は水であり、単価も安い為、とんかつやエビフライなどの冷凍食品と比較するとトラック一台の配送費に対する商品価格も低く、全く魅力が無いとどこの会社も製造する意思はなかったのです。ところが、「加ト吉の冷凍讃岐うどん」はその美味しさでしっかりとブランド化が進み、冷凍うどんの代表格として現在もゆるぎない地位を確立しています。その後多くのメーカーが参入し、ラーメンや蕎麦、パスタ等にも冷凍麺の製造が伸び、現在もその生産量は伸び続けています。当初製麺会社から冷凍麺の命は短いと言われていましたが、当の製麺会社数は激減するも、冷凍麺は伸び続けていると皮肉な結果となっています。私が今でも記憶に残っているのは、加ト吉の冷凍うどんが大ヒットした平成の初期、高松市のフェリー乗り場に冷凍うどんの自動販売機があり、そのうどんを食べた時の衝撃です。弊社の製麺機には店舗用小型機があり、讃岐うどん用製麺機はその納入実績も日本でNO.1の実績がありますが、自動販売機の冷凍うどんがあまりにもおいしかった事に衝撃を受けたのです。自動販売機でこんなに簡単に、しかもこんなに美味しいうどんが食べられるようになると弊社製麺機が売れなくなると正直なところ心配したことを覚えています。現在、本当に美味しい冷凍麺が全国の家庭に、そして外食産業などに使用され、日本の麺業界をリードするまでに成長しています。

七、讃岐うどん第四次ブーム

冷凍讃岐うどんの大ヒットと共に、讃岐うどんの知名度がますます高まる中「恐るべき讃岐うどん」という冊子が発行され讃岐うどんのとんでもない面白さと美味しさが紹介され、2002年(平成14年)100円うどんの「はなまる」が渋谷に一日2400名もの行列のできるうどん店を開業し、いよいよ讃岐うどんの第四次ブームに突入しました。
「はなまるうどん」がなぜ大ヒットしたのかというと、当時前田社長がアパレル関係の会社を経営しておられ、店舗がファッション性に優れ、明るく清潔で安心して食べる事が出来、セルフサービスの店という斬新さや入り易さもあり、何と言っても一杯100円という価格設定など、顧客満足度を満たした経営企画に優れたものがあったためと思います。当時の香川県内にはセルフサービスの店は沢山あったけれども、倉庫にいすやテーブルを並べたような閑散とした店舗が多く、うどん食堂として安くて便利さを発揮していました。しかし、はなまるうどんは外食企業として、店舗展開に必要なシステム化された運営システムも構築されており、それまではどうしてもチェーン化が出来なかった讃岐うどんを全国展開した功績は非常に大きかったと思います。それをモデルとしたセルフ式讃岐うどん店は、多くの外食企業が採用し、全国に広がり店舗数でNO.1に成長した丸亀製麺と共に今では世界各国に展開が進んでいます。この第四次ブームが過去最大の讃岐うどんブームとなり、讃岐うどん店経営の魅力が定着していきました。

八、最高品質の象徴とされる讃岐うどん

さらに、讃岐うどんの品質の良さは全国のスーパーに並ぶ麺、大手コンビニの調理麺、そしてまだまだ需要の伸びる冷凍讃岐うどん等「最高品質の象徴」とされ日本の麺業界をリードしています。過去においては「手打ち職人」が最高の技術を発揮し、品質も高い評価が得られていましたが、今では原材料の改良が進み、便利な副資材もたくさん登場し、製麺機械も確実に進歩した事で「最高品質の麺」は簡単に大量生産できる時代となっているのです。讃岐うどんの発展の歴史は、第一次ブームが起こった今から約50年前(1970年)は日本の外食産業の幕開けの時代であり、アメリカからファミリーレストランやファーストフード店が続々と上陸し、日本の食生活が和食から洋食へと大きく変わった時代でもありました。「讃岐うどんの近代史」はまさにその外食産業の発展と共に成長を続け今日に至っています。驚くことに、香川県が食品衛生を目的とした『足踏み禁止条例』により、さぬき麺機の「讃岐うどん製麺機」が生まれ、讃岐うどんの大ブームが4度も起こり、そして日本の麺業界の高品質化にも貢献する事となったのです。


麺聖3000

九、近代史を支えた香川の製粉会社


讃岐富士と小麦畑

讃岐うどんの本場香川には「吉原食糧㈱」「木下製粉㈱」「ホーコク製粉㈱」様の3社の製粉会社があり日清製粉㈱・日本製粉㈱様ほか多くの製粉会社も発展に大きく貢献されました。生麺・乾麺・手延べ素麺・うどん店等への独自に開発された小麦粉商品の提供や県産小麦「さぬきの夢」の普及、各組合事業への協力など、それらの努力が全国への大ブームに至る要因ともなりました。今回、小麦粉に関する研究もお知らせすべきとは思いましたが、あくまでも「塩」からの歴史の探求としましたので詳しくお伝え出来なかった事をお詫びします。