コラム(讃岐うどんの歴史と伝統)

【第二章】塩の歴史から見た讃岐うどんの起源

一、「塩」づくりの原点

塩づくりの記録は、古代では万葉集にも紹介されている藻塩づくりから始まり、天日の熱を利用して濃度を濃くし「鹹水(かんすい)」とし、それを煮詰めて塩を取り出すなど手間のかかるもので貴重な存在でした。海水の塩水濃度は3%しかなく、一ℓの水から30gの塩を取り出すのは大変な苦労を要しました。塩は人体にも生きて行く為には摂取しなければならない大切なもの。まず、その貴重な塩の存在を考えると、昔のうどん製法には現在のように大量の塩(対粉5~6%)を使うなどは考えられません。となると、「塩」を大量に使用する製法になったのは近代になってからかもしれません。


二、忠臣蔵と赤穂の塩

塩づくりは1200年前の平安時代から始まり、大量に製造されるようになったのは17世紀(1600年代)の江戸時代の中期、忠臣蔵で有名な兵庫県赤穂市で始まった入浜式製塩方法です。
その忠臣蔵で有名になった赤穂浪士の物語もこの塩田に関係し、吉良家が赤穂に隠密を送り込み、その隠密は捕まったが逃げ帰り、吉良の里の三河湾に入浜式塩田を作った事も事件の一因と言われます。塩の生産の北限は太平洋側は宮城県、そして日本海側は石川県でした。従って東北や北海道のアイヌの人達は塩は西日本から運ばれるものに頼らざるを得ませんでした。その後赤穂をはじめ、瀬戸内一円(約10か国で製塩された)に塩の生産が高まり、その塩は1636年から始まる「北前船」にて東北から北海道に運ばれました。


塩田風景

三、北前船の功績

秋田の稲庭うどんの発祥は寛文年間(1661年~1673年)であり、寛文五年堂や佐藤養助等の有名な会社もその頃の創業です。要するに、稲庭うどんの製法は手延べであり、「塩」が無くては製造できないものです。塩だけでなく、手延べ製法も「北前船」により関西から伝わったのかも知れません。瀬戸内は晴れの日が多い事から多くの塩田があり、江戸時代の終わりごろでは全国の80~90%もの塩を作っていました。当時、高品質の塩は瀬戸内十州(赤穂・備前・備中・備後・讃岐・伊予など…)が有名で、いくら作っても余ることは無く、北前船により全国に運ばれました。塩田の名称は明治に入ってからで、それ以前は塩浜と呼ばれていました。
ちなみに、讃岐うどんの本場香川県の坂出の海岸に入浜式塩田が出来たのが意外と遅く1829年であり、江戸時代後期に発明家の久米通賢により作られました。


北前船

四、うどんと手延べ素麺の誕生

日本の麺が今の形になったのは1500年代の室町時代になってからです。まずうどんが生まれ、続いて手延べ素麺(三輪素麺)が生まれました。それらの麺が生まれ、広く庶民の食べものとして普及したのはヨーロッパからの石臼の到来によって大量の小麦粉が出回るようになったこの室町時代からと言われます。奈良県桜井市に位置する三輪素麺は、伊勢参りの宿場町として栄え、そこで手延べ素麺を知り、その製法が龍野や小豆島、そして島原など西日本に多くある産地に広がっていきました。その手延べ素麺産地がなぜ西日本なのかについては、その製造に不可欠な「塩」が容易に入手できたからと思われます。どの生産地も手延べ素麺の生産が盛んになったのは1800年代の江戸後期です。従って入浜式塩田が拡大し、塩がたやすく入手できる環境にあったのです。


手延べそうめん

五、麺に対する塩の役割り

麺の製法に関する「塩」の役割りは、小麦粉に含まれるグルテンの粘弾性を引き出し腰の強い麺にする大切な働きがあり、その他に保湿効果、保存効果などの働きがあるので、特に素麺づくりには欠かせないものでした。現在の小麦粉製粉は小麦粉の中心部だけを使用し、その歩留まりは約60%前後であり、表皮部などは別の用途に使用し、色の白い一等粉をうどんや素麺づくりに使用します。当時の石臼製粉は全てをすりつぶす全粒粉であり、しかも国内産小麦粉はタンパク質の少ない中力粉であったため、グルテンを最大限に活性化する為の「塩」が無ければ素麺の加工は出来なかったと思います。しかも、小麦粉の粉砕能力にも限界があり、現在のような微粉砕には製粉できなかった為、さらに全てを引き込む全粒粉であった為、素麺の色は黒く、グルテンの性質上現在より色が黒く太いものであったと思われます。


乾燥麺類


素麺の乾燥風景

現在乾麺業界で定められた素麺の規格は1.3㎜以内の細いものとされていますが、恐らく塩の働きを考慮しても現在のような素麺ではなかったと思われます。また素麺を乾燥する場合、冬季の低温で乾燥した気候を活かし天日乾燥をする事が基本でしたので、その日の天候や気温により塩加減で乾燥の調整をしました。塩は保湿作用があり、晴れの風の強い日の過乾燥を避けたいときは塩度を強く、雨の日などの湿度が高く乾燥がしにくい天候の時は塩度を下げ乾燥をし易くする等、塩の働きは重要な役目を果たしていたのです。現在の乾燥は、衛生面もあり室内で除湿乾燥設備を用いて行う為、一定の塩度での乾燥が可能になっています。要するに職人の勘を要した塩加減は必要なくなっているのです。

六、うどん誕生にかかわる驚きの事実

うどんの製法について、その起源は「塩」を使用しないものであったと思われ、手延べ素麺の塩の効果を学び、うどんにも取り入れたのではないかと思われます。塩を使用しないうどんとは、「讃岐の打ち込みうどん・群馬や埼玉のおっ切り込み・名古屋の味噌煮込み、山梨のほうとう」等の煮込みうどんや「関東のすいとん、東北のひっつみ、関西や九州の団子汁」など、塩を使用しない小麦粉料理です。米は年貢として納め、庶民は粟やひえ、米のくず粉や麦食が主体であった事、また外食などは殆どしなかった事などで、それらの麺料理は各家庭で手打ち製法により作られていたものと思われます。


綾川ドジョウうどん

香川県では、「うどんが打てる事が嫁入りの条件」とも言われ、麺棒と打ち板のある家が沢山ありました。そして、そのような製法で作られたうどんは汁が辛くならないように、塩を使わず味噌や醤油などで味付けし鍋で煮込んで食べたものと思われます。従って、うどんの歴史を考えた場合、江戸時代に江戸や大阪などでは商業地にうどん店や蕎麦店があったようですが、近年外食として専門店で食べられるようになるまでは家庭料理で伝承されたものと思います。その証拠として、塩を使用しないうどん料理は、モンゴル、中国の東北部、韓国などに広く用いられていたのです。韓国のカルククスは、カルは包丁、ククスは麺と言う意味で、家庭で作る手打ちうどんのことです。私がそのカルククスを初めて食べた時は目からうろこでした。何と讃岐の「打ち込みうどん」そのものだったのです。その後、中国の遼寧省、吉林省、黒竜江省等の東北3県、モンゴル、そして実情は分りませんが、文献などからは北朝鮮でも同じ麺料理が存在します。中国において、その日の挨拶は「今日何か食べましたか?」であったように、昔の食生活は厳しく、配給される小麦粉を家庭で麺料理に用いていたものと思われ手打ちの文化が今も残っています。


中国の手打ち製麺工場

カルククス

七、石臼の伝来

石臼は、紀元前にロータリーカーンという回転式の石臼が、小麦粉などの粉食を主食としたギリシャで生まれ、ヨーロッパで発達してシルクロードにより中国に伝来し、朝鮮半島を経て日本に伝来したと言われています。日本に小麦粉が伝来したのは3世紀に朝鮮半島を経てとあり、ならば、室町時代(1500年代)に石臼が朝鮮半島より伝わった時、そのカルククスの料理も共に伝えられたのではないかと思われます。その当時から始まった朝鮮通信使が日本に訪れた際、カルククスの製法を伝えたとの記録もあります。そうすると、北アジア一帯に同じ「塩を使用しない煮込みうどん」の麺料理が存在する証拠になるのではないでしょうか。しかし、そのうどん料理も中国では文化大革命が終結する1976年、日本では大阪万博の開催された1970年以後、外食産業の発展、共働きの家庭の急増や食生活の変化などで家庭料理が激減し、それらの手間のかかる煮込みうどんは作られないようになりました。ただし現在、韓国ではカルククスの人気度は根強く、まだまだ店舗数が増加し、客単価も以前は400円前後だったものが700~800円もに高くなり、専門店では1200円もの客単価になるなど、美味しさも含め、日本のうどんとの格差が無くなっています。その他韓国には冷麺やジャジャン麺など多くの麺があり、それらの麺の発達したのも米不足によるものと言われています。つまり米の生産量が需要に追いつかず、不足した事から25%の麦を混入する事を強制され、さらには毎週水曜日と土曜日は米を食べることを禁じられていました。そのような事から麺の消費が伸びたものと思われます。


粉挽き水車

八、うどん製法と塩について

奈良時代から平安、鎌倉時代などではうどんはハレの食べ物として、庶民には届きませんでした。石臼が普及する前は小麦粉を木づちで叩き潰して食料としていたので大量に行き渡っていなかったと思われますが、庶民の生活には欠かせないものでした。群馬のおっ切り込みうどんは、石臼により小麦粉が多く入手出来るようになった江戸時代(1603年以後)から始まっています。まだその頃のうどんは塩を使用していなかったのです。ただ、江戸時代の手打ちうどん製法に1643年の料理書「料理物語」には「塩」を使ったほぼ現在と同じ製法が記載されています。さらにその約50年後の元禄10年(1697年)に刊行された「本朝食感」にも「塩」を用いた製法が紹介され、茹で上がりの麺は柔らかで切れないものが良いと現在のうどんの評価に近い表現がなされています。今から300年前の1700年の元禄時代、こんぴらさんで毎年10月に行われる大祭を描いた「金比羅祭礼図屏風」に3軒のうどん屋が描かれていますが、その頃のうどん製法に使用された塩の濃度までは分かりませんが、入手の困難な「塩」であっただけに今ほど大量には使用していないと思われます。


手打ち

九、塩に関する情報

日本を代表する調味料の味噌、醤油、そして小麦粉や塩、それらを使用したうどんや素麺等は室町時代から発展をつづけ、江戸から明治にかけて製法の確立や商品の流通が盛んになりました。ただし「塩」については漬物にも使用されるなど用途は広く、まだまだ貴重な存在であったため、うどん用にはそれほど大量に使用されていたとは思えません。
日本における塩の需要はどんどん高まり明治時代には80%前後は輸入に頼るようになっていました。第二次世界大戦では輸入できなくなり、深刻な塩不足となり自給率が20%程度であった為、塩は配給制となりました。そして戦後も1949年(昭和24年)から2002年(平成14年)まではたばこと同様に専売制となっていました。その後1959年(昭和34年)入浜式の1/10の労力で可能な「流下式製塩法」が普及し、自給率が高まり、さらに1965年(昭和40年)現在の「イオン交換膜製法」が開発され大量に生産が可能になりました。従って現在は「塩」をふんだんに使用できるようになりましたが過去の推移から考えると、昔の庶民の生活には貴重な塩を大量に使用する事は考えられません。


醤油蔵(外観)

醤油蔵(内観)


塩の生産量(2016年)
出典:塩事業センター 塩百科より

※2016年の塩の生産量は①中国(6310)②アメリカ(4200)③インド(2920)④ドイツ(1624)⑤オーストラリア(1190)万トンで、5か国で世界の50%を占めます。日本は34位で93万トンです。
2017年(平成29年)の塩の自給率は12%であり、88%が輸入です。日本の一年間の塩の使用量は839万トンです。その内訳は食品用が約94万トン(11%)、工業用が約617万トン(73%)、その他(融氷雪用や家畜用など)が約129万トン(16%)となります。食品用途は食塩や味噌、醤油などに使用するもの、工業用とはNaclをNa(ナトリウム)とcl(塩素)に分解し、苛性ソーダやソーダ灰等に使用しています。日本の塩の主な輸入先は、メキシコやオーストラリアの天日塩です。

十、塩の濃度とは

『土三寒六常五杯』を実際に検証すると塩1×水3=20.5度ボーメ、塩1×水6=11.5度ボーメです。これは現在の並塩で計測したもので、昔のニガリやその他の不純物が混入していた塩の場合は含有水分も多くもう少し塩度は低いと思います。讃岐うどんの場合、夏季で小麦粉25kgに5%(10度ボーメ)の塩は1.25kg~6%(12度ボーメ)では1.5kgの塩の量となり、名古屋の手打ちうどんの場合7%(14度ボーメ・1.75kg)~9%(18度ボーメ・2.25kg)も使用します。名古屋の製法と讃岐の製法は同じ手打ち製法でも塩の使用量に大きな差があり、名古屋の製法は高い塩度で加水量は40%程度と少なく、非常に硬く粘り強い麺生地をしっかりと鍛え、団子(はまと言う)に菊揉みし陶器の大きな瓶(かめ)に入れて一晩ねかす製法が主流であり、讃岐の製法とは大きく違います。いずれにしてもうどんに「塩」を大量にネリ込むようになったのは、少なくとも昭和34年の流下式製塩法以後ではないでしょうか。


菊もみ

十一、茹釜の燃料について


茹で
これまで「塩」そして・製法・麺料理について説明しましたが、麺を茹でる「燃料」について推察します。現在のうどん店は小麦粉や塩、その他の条件が整い何の不便もない時代となっていますが約五百年前、うどんが発祥したと言われる室町時代からの事情を考えると、江戸時代から明治時代に至ってもまだまだ小麦粉も塩も入手困難な時代であり、湯を沸かす茹釜、そして燃料にしても簡単ではなかったはずです。燃料としては木材や落ち葉を主体としていたはずで、大量に使用できる条件は無かったと思われます。当然うどん店もなく、食事は家で食べる事が当たり前の時代は今から50年ほど前の1970年頃まで続きます。従って讃岐うどんの歴史を考えると、熱源をあまり必要としない家庭料理として製法が順次進化しながら受け継がれたものと思われます。現在のように有名になり、讃岐うどん店が全国に沢山あり、冷凍讃岐うどん等の麺商品が全国のスーパーに並ぶなど大発展したのはごく近年になってからです。1945年に終戦を迎えた第二次世界大戦では全国の主要都市は空襲を受け焼け野原となり、うどん店も蕎麦店も老舗と言われる歴史のある店舗は殆ど存在していません。要するに、戦後の復興時に人口も急増し、小麦粉(当時はメリケン粉と言われた)も大量に出回り、塩も量産化されるなど麺の生産体制も整い、うどん・蕎麦・ラーメン、そして素麺や干しうどん等の麺類が増産されました。当然その麺を茹でる茹釜は、燃料である重油や灯油、都市ガスやLPGなども対応が可能となり、日本の麺業界全体が急速な伸びを示しました。という事で、『塩』から讃岐うどんの歴史を探ると永年家庭料理として受け継がれ、大発展したのはごく近年になってと思われます。

十二、流下式製塩方法始まる

これまで讃岐うどんの歴史を考えた場合、小麦粉の量、小麦粉の品質、手打ち職人の存在や現状のうどん製法、そしてうどん店の形態などを好条件の揃った今の現状から想定しても全く理解できるものではありません。そこで今回今までの歴史書には出てこなかった「塩」の存在に照準を合わせ調査してみたところ、非常に興味深い事が次々に判明しました。1945年の第二次世界大戦の終戦後、全国の製麺工場が急増し5000社ほどにもなり、うどんやラーメン、蕎麦等の麺類の生産も急増しました。当然品質よりも量が求められ、コシの無い機械うどんが当たり前の時代でした。しかし、次第に生活が豊かになり、1960年代(昭和35年頃)より美味しいものを求める時代に「讃岐うどん」の美味しさが際立つようになりました。丁度その頃「流下式製塩法」が確立され、それまでの「入浜式製塩法」の10倍の塩が生産され、うどん作りにも多くの「塩」の使用が可能となりました。弊社が「讃岐うどん製麺機」を開発した1965年(昭和40年)頃はまだまだ手打ち職人の時代が続いており「土三寒六常五杯」の製麺方法は全国から注目を集め、その美味しさから讃岐うどんの名声は全国へと広がりました。当時の小麦粉価格は1,300円/袋(25kg)ほどであり、香川県の製麺所の平均製造量は2袋/日でした。現在から見るといかにも少ない量ですが、数百年をさかのぼった場合、もっと少ない生産量であり、小麦粉や塩の量、そして茹でる燃料にしてもそれほど多くのものは使用できなかった時代と思われます。まして外食などできる時代でもなく、手打ち職人が活躍する場もなかったのです。そのような事から讃岐うどんの原点は家庭料理として現代まで伝承されたものと思います。


左:流下式塩田 右:入浜式塩田

十三、戦後の復興期とうどん業界

そこで、戦後の発展の推移を数字で確認したいと思います。一般的に麺食堂や専門店として発展してきた讃岐うどん店やラーメン店、日本蕎麦店、そしてスーパーで販売される茹で麺や冷凍麺などを総称し生(なま)麺と言いますが、戦後から1997年(平成9年)まではその生産数は伸び続け小麦粉換算で70万トンに達するまで成長を続けました。しかしその後減少していき2012年(平成24)の54万トンを底に増加を続け、2018年(平成30年)には再び70万トンを超すまでに増加しています。全国の製麺工場数は1965年(昭和40年)当時は5000社ありましたが、現在では1500社程度に減少しています。しかし、製麺設備の省力化、自動化が進み工場数は減少したけれども麺の生産数量は伸びています。一方、冷蔵庫が無くても常温での保存性が高く全国の家庭には保存食としても必ず置かれていた乾麺の生産数量は、1960年(昭和35年)は46万トンの生産量で乾麺工場数は8085社(手延べ工場含む)もありましたが、2018年(平成30年)に1350工場に減少し、生産数量も19万トンに減少しています。私の記憶から、近くの農協にも乾麺設備があり、大きな鉄製のロールで麺が延されていたのを見た事があります。観音寺市豊浜町にも小さな乾麺工場がたくさんあり、やはり大きなロールで製麺し、別の部屋で吊り下げて乾麺を製造していた事を思い出します。生麺と乾麺とはそのような推移となっていますが、工場設備は自動化が進み、工場数は減少しても一社当たりの生産数量は格段に増加しています。乾麺は特に乾燥工程における「塩」の作用を欠かす事が出来ず、手延べ素麺と共に「塩」とのかかわり合いが特に強い麺であると言えます。乾麺も生産数は減少していますが、麺の品質は驚くほど進化しており非常に美味しい麺であると言えます。


最近のロール麺機

十四、天然(自然)塩の効果について

健康な体を維持するには一日に12~15gの塩分を必要としますが、「塩」についてはあまりにも身近にありすぎてそれ程真剣に考える事はありませんでした。ただ塩の専売制が1997年に廃止されてから22年が過ぎましたが、「天然(自然)塩」についての相談は良く受けるようになりました。要するにうどんに対して良い効果があるのかどうかについてです。結論は全く効果はありません。
小麦粉対する塩の働きは、小麦粉に約10%含まれるグルテン(タンパク質)に作用し、膨潤させることにより粘弾性を引き出し、グルテンの網目状組織を形成する事にあります。小麦粉の約70%を占める澱粉質には「塩」は作用しません。要するに塩(塩化ナトリウムNacl)がグルテンに作用し、粘り強いコシと弾力を生みます。天然塩に10~20%含まれる「ニガリ」はアルカリ性なので、酸性のうどんには逆効果があります。「ニガリ」はタンパク質を固める働きがある為、豆腐づくりには必須です。しかし、うどんを硬くする事で「ニガリ」を含む「天然塩」は、うどんには使用しない方が良いという事になります。また「天然塩」は水分をたくさん含んでいる為、重量の割には塩度が薄く、ついついたくさん使用しますが、原価が高くつくだけで何の効果もない事をお伝えします。
ただ、一般に使用する「並塩」と「天然塩」をなめて比べると、「天然塩」は甘くてなめらかで全く違った感じがするため、うどんにも良いと思われがちですが、何の効果もないのです。ちなみに「並塩」の塩化ナトリウムの純度は99%で「天然塩」は約70~80%なので当然その純度からしても塩辛さが違います。

十五、「塩」の歴史から讃岐うどんの歴史が見える

その様に「塩」の歴史から日本の麺の歴史を探る事でこれまでぼんやりとしていた史実がかなりはっきりと見えてきました。過去の歴史書はうどんの名称やうどんの形から、そして小麦粉の存在や生活様式、そして時代背景などから様々な事実であったり想像力を発揮した展望などからかなり詳細な報告がなされています。しかし、私はどうしても讃岐うどんの製法、原料となる小麦粉、小麦粉の品質、そして欠かす事の出来ない「塩」の歴史を探ってみると理解できない事が多く、さらに韓国や中国の東北部を訪れ現地のうどんを食べ、それらから北アジア一帯の食文化を考えた場合、今までの歴史書では発見できなかった事実が沢山つかめたのです。当然私は歴史学者ではないため製麺機械メーカーの代表者として自身の経験から蓄積してきた情報を整理して考えておりますのでその信ぴょう性については専門家の方々からの評価をお待ちしたいと思っています。
そして、次に『第三章の讃岐うどんの近代史』については、自分自身が体験してきた事をもとにお話しすることで、それらの経緯を知る人が殆どいなくなった今、「生き証人」として事実をお伝えしたいと思っています。そしてそれらがが讃岐うどんの更なる発展に繋がる事を期待したいと思います。