コラム(讃岐うどんの歴史と伝統)

【第一章】一般に知られている讃岐うどんの歴史

一、怪しい空海伝承説

讃岐うどんの歴史について、その起源については諸説あり1200年前に空海が遣唐使として派遣され、中国の西安で学んだ製法を生誕地の香川県に持ち帰った説、500年程前の室町時代の石臼伝来により中国から朝鮮半島を経て伝わった説、江戸中期の元禄時代こんぴら参りを起源として発展した説などいろいろありますが明快な根拠は掴めていません。過去の歴史書には小麦粉の由来や麺の名称(餛飩・温飩・ウトン)や形(麦縄)からその歴史を探るものばかりでした。讃岐うどんの原型は、奈良時代(771年)に中国から伝わった「索餅(さくべい)」とか「餺飥(はくたく)」と言われますが現在のうどんとは違ったものでした。これまで、讃岐うどんに関する歴史書は沢山ありますが現在につながるものは発見できません。またそれらを調べたところで讃岐うどんの歴史の真実に近づけるのかというとどうも違う気がします。
そこで私は、讃岐うどんの製法や原材料、そしてどのような麺料理が伝承されたのかを探る方がより現実に近いものが得られるのではないかと、その観点から讃岐うどんの歴史を探る事としました。香川県では空海伝承説が良く聞かれますが、その時代には小麦粉や塩の存在からしてもそのような食文化はなかったと思われること、中国人は特に塩分を嫌うため現在のようなうどんが中国から伝わったというのは怪しいと思うのです。とにかく讃岐で生まれた偉いお坊さんという印象から、 その功績につなげる思いもありその様な説が広まったのではないかと考えられます。


さくべい

二、こんぴら参り

江戸時代に入り、危険な船旅をしながら瀬戸内海を渡りこんぴら参りに沢山の人が訪れていましたが、その「こんぴら参り」を起源とする説はかなり現実的です。現在も多くの観光客で賑わっていますが、江戸時代から『海の神様』として全国からの信仰を集めていました。現在も全国の海に関する事業者からの多くの寄付を頂いているようで、造船会社や商社、魚業組合などからの寄付が目立ちます。当時こんぴら参りは高松港に船で渡り、こんぴら街道(現国道32号線)で金刀比羅宮(通称:こんぴらさん)に向かう事が主流でした。その途中に綾川(丸亀市綾歌町)という川があり、宿場町としても栄えましたが、その水の流れを利用し水車で石臼を回し小麦粉を製粉していました。当時のうどん店は宿屋の一階にあった例が多いようです。明治時代には35~6基の水車があったとされ、その綾川流域が讃岐うどんの発祥の地とも言われ、このこんぴら参りの門前で食べた讃岐うどんの美味しさが全国に伝わったものと思われます。讃岐うどんは信州蕎麦、出雲蕎麦、名古屋きしめん等と並び数百年の歴史を経て今日に至っており、日本で最初に誕生したのが讃岐うどんである事も確かです。讃岐うどんには伝統の製法があり「土三寒六常五杯」という塩水の値、ネリ、鍛え、熟成、団子、すかし打ち、包丁切りなど、各工程の中に独特の“秘訣”があり、その伝統製法は“最高品質の象徴”として現在の日本の麺業界をもリードしています。香川県は良質の小麦粉の産地であり、塩の生産地でもあり、ダシに使用されるカタクチイワシ(いりこ)も日本一の漁獲量を誇るなど、讃岐うどんが育つ最適な環境でその恵まれた環境を活かし、現在まで発展を続けてきました。しかし、いつの時代から手打ちうどん製法が始まったのか、小麦粉や塩はいつごろから十分な量が入手できたのかなど、全てが揃い何不自由もない現在の状況から想像しようとしてもその答えは見つかりません。そこで、小麦粉の製粉、塩の生産、茹でる釜の燃料、生活実態、うどん料理などの観点から調査すると次々に思いもよらぬ事実がつかめてきました。


こんぴらさん


製法秘伝書

三、意外と浅い讃岐うどんの発展の歴史

日本の麺業界の発展、そして讃岐うどん店やラーメン店、蕎麦店などの専門店の歴史は1970年(昭和45年)の大阪万博頃から始まり、日本の外食産業がアメリカから入ってきたファミリーレストランやファーストフードの発展の歴史と同時期から起こっており、そんなに古い歴史では無い事をまず知って欲しいと思います。日本人の食生活は第二次世界大戦後(1945年以後)の急速な経済復興と人口の急増により大きく変わっていきました。小麦粉や塩が自由に入手できたのもその頃からであり、茹釜などに使用する石油類や製麺機の動力である電気の発電設備に使用される石炭などが復興と発展を支えたという事実もまだまだ戦後70数年の事です。今、何の不自由もない状況から考えると想像もつかない事ばかりですが、讃岐うどんの歴史だけを見てもそれほど古いものではなく、「塩」が大量に出回る昭和34年以後に本格的な幕開けとなったものと思われます。しかしながら、讃岐うどんだけでなく信州蕎麦や名古屋きしめん等も古い歴史があるとも言われています。確かに有名な名産麺は古くから存在し、讃岐うどんは金刀比羅宮、信州蕎麦は長野の善光寺、出雲蕎麦は島根の出雲大社、名古屋きしめんは熱田神宮、伊勢うどんは伊勢神宮の門前町で栄え、信仰に関係して発展しましたが、いずれも江戸時代以後の事です。とにかく何の道具も機械もなかった時代には、手でこねて、手打ちで製麺するなど手作りしていましたので少量のものでしかなく、大量に製造されるのは明治初期にロール式製麺機が、明治後期にミキサーが開発されてからという事になります。

四、「塩」の歴史から新しい発見が

しかし、当時はまだまだ電力も乏しく動力のモーターもなく、さらには原材料の小麦粉も十分に量が確保されず、もちろん塩も含め全てが第二次世界大戦後に安定供給される事となりましたので、讃岐うどんを含めた麺類全体の発展は戦後という事になります。冷蔵庫のない時代に常温で長期保存を可能とし、庶民の間に広く定着していた乾麺の歴史も生麺とほぼ同時期に起こりました。乾麺でも手延べ素麺は室町時代に誕生しましたが、機械素麺や機械うどんの乾麺は昭和に入り生産化され、乾麺工場も急増したのは戦後になっての事です。手延べ素麺も機械素麺もうどんの乾麺も全てその製造には「塩」が欠かせません。その「塩」の製造は約300年前の江戸時代の中期に開発された「入浜式製塩」が延々と続き、昭和34年からはその10倍の能力を持った「流下式製塩」が始まり、そして1965年(昭和40年)に「イオン交換膜製塩」により大量生産の時代となり今日に至っています。塩、小麦粉、電機、石油、石炭、そして製麺機、その動力であるモーターなどの普及はすべて戦後になってからです。従って、讃岐うどんもその他の麺も大きく発展したのは戦後であって、それまでは大量に流通する状況にはなかった事が分かってきました。そのように「塩」の存在から見ると讃岐うどんだけでなく、日本の麺業界全体の発展の経緯がつかめてきました。それらについて詳しく説明を進めたいと思います。